老いるという素晴らしさ。

RINGOKAN

2009年01月10日 18:00










僕がまだ老いた方々を見ても、なにも感じなかった頃

自分が「老いる」ということに、全くといってよいほど関心がなかった。



盆栽や井戸端会議、裁縫に囲碁将棋・・・

なにがそんなに楽しいのだろうと。











昨年僕は今までになく、多くの神社仏閣を見て回った。

それは京都であり、または、地元の谷の口であったりする。

この41年間の人生の中で、一番多く見た一年だった。



建物の佇まいそのものに美しさを感じ、そして、実際には見ることのできない

それまでの歴史に想いを馳せる。

春は境内に植えられた花々に感動し、秋は落葉樹の美しさに

「今、生きている」という実感を味わう。



ときどき、そんな自分を客観的に見て、「老いたな。」とも想う。

以前の僕なら寺や神社などに、全く関心がなかったからだ。











山に登っては、登りきったその達成感に感動を覚え、絶景を眺めながら感極まる。

まだまだ若い20代では全く感じるどころか、そんな行為を避け

それらを馬鹿にしていた。



正坐をしてお茶を飲む?

気取ってクラシック音楽?

ボールを穴に入れるゴルフ?・・・くだらん。











ある出逢いから茶道を嗜み、その素晴らしさを知る。

また違う出逢いから、僕もピアノの鍵盤を叩くようになり

他国の文化の素晴らしさに気づく。

ゴルフもそう、こんなに素晴らしい紳士的スポーツは他にはない!!

と、想うようになった30代。



僕も年とともに、そうなってしまったのかもしれない。











そんな僕も昨年の年末には、NHK の紅白を見て感動し涙を流す。

老いると同時に涙腺は緩むのか。

僕の母親など、テレビの前でよく泣いている。











先日の休日に初めてうかがった寺、この日は天気にも恵まれ

美しく整えられた中にある、とっても小さな美しさにたくさん出逢った。

もちろんこれには、価値観に対する個人差がでるだろう。



僕も以前は、そうであったように。











僕は最近想う。

「老いる」ことと「老ける」ということは、全く違うのだと。



人が「老いる」のは、銘酒達が「熟成」するのに似ている。

「老ける」のは、意識の中の変化ではないのか。











しかし、熟成は永遠ではない。

残念なことだが、それには必ずピークがあり

そのピークを過ぎれば必ず劣化・腐敗が生じる。



それはどうしても避けられない。

どんな素晴らしい銘酒であってもである。

われわれ人間も同じであるように。











身近にあった素晴らしさに気付かなかった若者たちが

時間とともにそれらに気づく。



何か素晴らしさを求めるなら、それは、より遠くを望み

ときとして高価なものに喜ぶ。



しかし、歳を重ねるごとに人は変化する。

身近にある素晴らしさに気づくようになる。

これも「老いる」ということなのかもしれない。











僕は想う。

「老いる」というのは、究極の「進化」なのかもしれないのだと。








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2009年1月25日(日)は、Burns Night 2009



Valentine Night's 2.9〜2.14







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